代表経歴 【私は虐待児童・・・?】


たぶん、虐待児童だったのでしょう。
「昔は当たり前だった!」と団塊世代はおっしゃるでしょう。
今の時代に言う事を聞かないからと言って柱に縛られたり
表に出されて家に入れてもらえなかったりすれば
たちまち通報されてしまうでしょう。
実は、そんな子供時代でした。
虐待の根拠は
① 近所のおばちゃんからよく言われたコトバ
 「おばさんは千秋ちゃんの事、大好きだからね」
② 親戚のおばさんが母親に言っていたコトバ
 「そんな言い方をしたら子供が曲がっちゃうよ」
③「泣き止むまで待って」が受け入れてもらえなかった
  更に「いつまでも泣くんじゃない」と怒鳴られた
④ 習い事の押し付け、「NO」が受け入れられない
 高校も親の指定以外は“学費を出さない”と言われた
       ・・・そして、見事に曲がったのが「私」です。
しかし、
母も自分が虐待している意識はなかったでしょうし
私も母以外の「母親」に育てられなかったので
これが“普通”だったのです。

【コンプレックス】

そうやって私は
・常に否定されてきたので自信が無い
・叱られることばかりで自分の長所がわからない
・希望が通らなかったので夢がささやかで小さい
・ネガティブで失敗を自分のせいだと思う
・他人様に迷惑をかけないよう常に間違えを恐れる
・自分より周りを優先するのが当たり前になる
・人から不本意な扱いを受けてもしかたが無いと思う
・母親が大嫌い・・・コミュニケーション不調
なんでみんなは
自分の言いたい事が言えるんだろう?
のびのび振舞えるんだろう?
間違っても笑っていられるんだろう?
毎日楽しそうなんだろう?
なんで私は
自分らしくいられないんだろう?
本当の自分を表に出せないんだろう?
「NO」が言えず、苦しいんだろう? 
思春期にはありがちな葛藤かも知れませんが
“良く死ななかったものだ”と今更に思います。

【宝物】

それでも学校には仲の良い友達がいました。
特に目立つ存在ではありませんでしたが
嫌な事を風刺し、笑いに変えて表現する事が得意な人でした。
自然と似たモノ同士が集まり愚痴を笑いに変えながら
何とか毎日を乗り越えていました。
彼女は現在でも大事な親友で付き合いも半世紀近く。
中学では部活動も違っていたし、高校は別々でしたが
休日に彼女の家で仲間と酒盛りをし
今は亡きお母様にご迷惑をおかけした事も懐かしい。
冬休みには一緒に郵便局の年賀状アルバイトに通ったり
社会人になってからも島へ旅行に行ったり・・・
それぞれ結婚し、子供を育てながら
愚痴を聞きあい、相談しあい現在に至っています。
彼女がこの世に存在していなければ
私は現在を生きていなかったかもしれません。
また、こんな私にも結婚を申し込んでくれる人もいて
「相手に望まれてするのなら幸せになれるのだろう」と結婚。
3年後には娘、その3年後には息子に恵まれ、
息子の出産と同時に郊外の建売戸建てに引っ越し
家事・子育てに追われる毎日。
そんなありふれた日々について
「家族で家庭を作っている」
のだと思っていたのは自分だけだったようです。
息子が3歳の誕生日を迎える頃から夫の様子が変わり始め
夏が終わる頃には、
自分の後ろめたさを隠すようにモノに当たり家族に背中を向け
「別に好きな人が出来た」と離婚を切り出されたのです。
決定的だったのは夫から言われたこの言葉。
「お前は家の事も、子供たちの事もよくやってくれている
 俺の目に狂いはなかった。
 でもお前じゃダメだ」
それまでの人生を全否定されたようで言葉がありませんでした。
自分の家庭観が消滅して
“誰からも必要とされない妻だったのか?”
“誰からも愛されない女だったのか?”
この問いは今でも解答がないまま現在に至ります。
そして最後に残った“母親”として
“子どもたちのためには何がベストなのか?”を最優先に考え
『子供に向き合えない父親では子どもも幸せじゃない』と判断。
子どもたちの養育費と引き換えに別れる事となったのです。
もしも結婚前に
自分の感情ややりたい事を後回しにせず行動していれば?
自分の考えや自分らしさを表現する方法を身に付けていたら?
何よりも、もっと自分を大事にする事を知っていたら?
そんないくつかの問と親友と子供たちが現在の宝物になっています。

【シングルマザー奮闘記】

その頃、両親が家を買って近所に引っ越してきていたので
ひとまずの形で実家に置いてもらう事になりましたが
娘がこんな形になっても母は厳しい人でした。
収入のない自分に「貯金が減る」「世間体が悪い」
「弟の嫁さんに示しがつかない」「財産放棄の証書を書け」
と言われるようになり
子どもたちをほめる時は「私の孫」、叱る時は「あんたの子」と
辛い事ばかり。
半年後には「出て行け」と言われるようになっていました。
電気工事の会社でCADオペレーターのパート勤めを始めてからも
「残業なんかしてきたら、子供たちの前で先に晩ご飯食べるからね」
(もちろん子供たちの分は無し)と言われたい放題でしたが
市営住宅の抽選に当選し、ようやく実家を出る事が出来ました。
引っ越した日の晩、「これから三人で生きていこうね」と
幼稚園に入園したばかりの息子と小学校に入学したばかりの娘
三人で抱き合いながら泣いたのを覚えています。
実家は離れたモノの、帰宅後の子供たちを預けての再出発。
朝は幼稚園のお弁当を作り、ご飯を食べさせ、洗い物を済ませて
車で子供たちを実家に送り
勤務先からの帰りには実家に子供たちを迎えに行き
合間に子供の話や学校の準備をはさみながら
買い物、掃除、洗濯物の始末、夕飯の支度、入浴、洗濯・・・
就寝は毎晩日が変わってから。
それでも職場ではパート勤務で午後4時に退出の契約なのに
「定時前に帰るのか?」と嫌味を言われることもしばしば・・・
実家からの要求は更にエスカレートし
「学童保育だったら保育料を払うんでしょう?
 じゃあうちにも一人1万円ずつ保育料をよこせ」
と言われます。
子どもにあたられては大変だと思い毎月2万円を渡していましたが
ある冬の夕方、子供を迎えに行くと
玄関先のコンクリートの上にゴザを敷き、
息子が友達と震えながらカードゲームで遊んでいました。
建物の中では「友達までは家に入れないよ」と
父と母が胸までこたつに当たりながらテレビを観ています。
私は逆流するモノを覚えながらも《子供に何かされては》と
自分に言い聞かせ言葉を飲み込みました。
対照的に子供たちの父親とは縁を切ったモノの
父方の祖父母はありがたい存在だったかもしれません。
自分の娘と息子だけがあちらの実家にとっても唯一の孫だったので
血筋と名前は残そうと離婚後も名字を戻しませんでした。
毎年、夏休みには父親の実家へ遊びに行き
秋の連休には向こうの祖父母が遊びに来るという年を重ね
両方の祖父母から受けるモノの違いを体験する事が出来たと思います。

【母親の私と1人の私】

息子が中学に上がってからは実家に行くことは減ったものの
子どもたちが思春期を迎え経済的、精神的に厳しい時期でした。
娘が大学、息子が高校のそれぞれ合格すると二人とも自宅を離れ
私にとって二度目の独り暮らしが始まりました。
もちろん経済的な不安を取り除くために節約を心掛け、毎日残業。
それでもたまには!とスーパーの生菓子売り場へ行き愕然としました。
子どもたちと暮らしているときには
何のためらいもなく手を伸ばした商品に手が出ません。
それまでかごに入れる事が出来たのは“子どもに食べさせるため”
子どもと離れてからは“子どもに仕送りする金額を確保するため”
買い物をしていたのだと気が付いて涙が出ました。
またしても一生懸命になって自分を失くしていたのです。
それから『1人の人間としての自分』について考え
やりたい事、出来る事、出来ない事、したくない事を書き出し
自分を責めずムリせず、やりたい事で出来る事から始めました。
この時に思い付いたのが暮らしの工夫でブログを書く事と
エンディングノートを書いておく事でした。
エンディングノートと言っても便せんに必要な事を書き連ねた
簡単なモノでしたが、子供たちに残す最後の言葉にさし掛かると
「生まれてきてくれてありがとう」
「私の子で苦労を掛けたかもしれないけど楽しかった」
こんな言葉が出てきて
『お金は無いかも知れないけど幸せは身近にあったんだ』
『アレも無いコレも出来ないって思ったけど足りていたなぁ』
と思えました。
その年の瀬、冬休みで帰宅する子供たちがどんなに嬉しかったか!
子どもたちがそれぞれの布団に落ち着いた後、
自分の布団で幸せをかみしめながら泣きました。
その年の年末は3人でディズニーランドへ!
ここが3人で遊びに行った最後の場所になるとは思いもしませんでした。
【波乱万丈は終わらず】
年が明けそれぞれの生活に戻り、年度替りが近くなったあの日
東日本大震災が発生。
電話で家族の無事を確認、仕事を終えてから息子を迎えに行きました。
あの日は不気味な天気で星が見えているのに霧が深く
日が暮れた山道に死者の霊が彷徨っているような錯覚を覚えています。
また伯母や従姉妹たちが宮城県にたくさん暮らしていました。
津波でアンテナが流されてしまったのか誰一人連絡が取れず
津波の情報や被災の映像を見るたびに石巻や女川の情報を探す毎日。
やっと情報が入って来たのは地震発生から4日後、
町ごと津波に飲み込まれていく映像に身がすくみました。
逆にそんな映像を見ても「大丈夫、大丈夫」と笑う母に
嫌悪感すら感じながら・・・
その後の連絡から伯母と従姉妹を津波で亡くし、
海から離れた従姉妹の家を残し全ての家を流されたほかは
無事に生き永らえた事を知りました。
それからは出来る事を探し、宅配が届くようになってからは
家で使っていなかった衣類、寝具、保存食や日用品を送る日々。
この時期は亡くなった伯母が耳元で指示を出しているような感覚で、
かえって一人暮らしが動き易く
自分にしかできないと覚悟して行動していました。
一瞬にして瓦礫というゴミになった愛着品と大量の援助物資は
生きている私にとっての大きな課題の1つとして認識されたのです。

【不登校~ひきこもり】

息子が不登校になったのは震災の翌年でした。
1年生の時は再下級生として寮生活をこなしているように見えましたが
入学当時から“入学がゴール”になっていたようでした。
二年生の後半から「授業を欠席する」と担任教諭から連絡があり
学業についていけていない旨を知らされたのです。
その頃の息子は一気に老けて投げやりな印象でした。
コトバも少なく「面倒くさい」しか言わなかった事を覚えていますが
学校を続けられないくらい疲れているとまでは考えられず
本人も「学校は卒業する」と言っていたのです。
しかし、正月休みを終え寮に送っていく日
息子から「自宅通学にしたい」と申し出がありました。
私はあまりに急な事で受け止められず
「取り敢えず通学片道二時間半は難しいと思うから
 どうしても耐えられなかったら考えよう」
と言うしかありませんでした。
後になって後悔したことは言うまでもありません。
出席日数と単位不足で息子の留年が決定し
新年度から電車通学が始まりましたが
その頃には通学が出来なくなっていました。
家を出て電車には乗ったそうです。
乗換駅から学校へ行く電車には乗れても学校最寄りの駅では降りられず
終点まで行っては学校最寄り駅で降りられず乗換駅に戻り
自宅最寄り駅を通る電車に乗っても自宅最寄り駅では降りられず
終点から折り返し、やっと最寄り駅で降りる・・・
(母は仕事なので息子より遅い帰宅)
そんなことを繰り返していたので
学校から呼び出されるのも間もなくの事。
病気療養を理由に留年1年目を早々に休学しました。
今、思えば心底疲れ果てていたのでしょう。
帰宅してからは布団から出られない日もあり
私が行ってきますと家を出る時の体勢のまま
私の帰宅まで変わらずにいる事もありました。
もちろん食事も手付かず・・・
まるで息子の体の中で神経や記憶や知識や感性の回路を
修復し、つなぎ直すように睡眠を取っていたのです。
私はそれに関して何も言いませんでした。
ただ、これからの通院と治療の事、
「君がこんな経験をする事は無駄ではなく、
 同じ経験をした人を理解できるという貴重な経験だ」と
繰り返し伝えました。
学校で紹介された病院は新橋にあり何度か付き添いましたが
お医者様の診察は曖昧で内科や外科のような治療も無いため
不透明感だけが残るものでした。
それでも半年後には布団から起きられるようになり
学校に復帰するか?の問いかけに
「そのために治療してきたんだよ」と息子からのコトバ。
しかし、いざ新学期に復帰を試みても登校はできませんでした。
その後の息子の人生を考えるとやるせない不安はありましたが
中退を決めた事で学校というストレスを手放し
二人で笑ったのを覚えています。
高卒認定試験の受験とアルバイトを勧め
専門学校からの就職を考える提案をした所
息子が自ら動き始めるきっかけとなり紆余曲折を乗り越え
現在は我が家の大黒柱となっています。

【職歴】

私は離婚からの再就職で電気工事の会社にパート勤務していましたが
15年経っても入社時に言われた正社員登用は実現していませんでした。
任される仕事も増え、正社員同様の勤務時間で残業もこなし
職場環境の整備や福祉住環境コーディネーターなどの資格を取得しても
時給が見直されることは無かったのです。
厚生年金の受取りに必要な勤続年数に達したのを機に転職しました。
子どもたちの学費でお金が必要だったこともあり
基本給が2倍近い住宅リフォーム会社の営業として働き始めました。
しかし、高給には裏があるものです。
勤務を始めた3か月後には1日の就労時間が12時間~15時間となり
半年後に体調を崩し退職しました。
それでもどっこい、
その間に得た知識からリフォームスタイリスト1級を取得し転職します。
次の会社はかなり特殊な土木工事の会社で原価管理の仕事でした。
全国の作業現場からFAXで送られてくる日報から労務費等を入力し
総務部が行う支払いや請求の計算をする部署だったのです。
入社から3年後に退職する事となりましたが
その理由は認知症予備軍となった母との同居でした。

【1世帯分の廃棄物】

母との同居を決断する1年半年前、父が他界しました。
生前から父に「婆ちゃん、おかしいぞ」とは聞いていましたが
私に言わせれば、物心ついた時から信じられない母だったので
「今に始まった事ではない」とタカをくくっていました。
それまでにも同居の誘いがあった際
「今まで耐えられない事もあっただろうけど忘れてくれ
 私たちも忘れるから」と言われて飲み込んだコトバ。
“この人たち狂ってる!”すでに自分にとっておかしい人だったのです。
ついに父の肺ガンが全身に転移し、
いつ容体が急変してもおかしくない状態で
病院から父危篤の連絡を受けた母は、
あれほど父が拒否していた延命治療を「お願いします」と言ったのでしょう。
次の休日、病院に見舞いに行った家族は息をのみました。
目にしたのは咽頭切開したところを無意識に外さないよう
両の手をベッドの柵に縛られ、話もできなくなった父が
恨めしそうに、また助けを求めるようにこちらを見ていた姿だったのです。
何で!何で!何で!あんなに延命治療は要らないって言ってたじゃない!
母は自分勝手に延命治療を願ったのでしょう。
あまりの情けなさと痴呆にも通じる母の身勝手さ、そして哀れさに
喉元まで出かかった言葉を全員が声に出来ませんでした。
もし母が気持ちの整理をして自分の執着を手放し
父の死を受け入れる覚悟が出来ていれば・・・
この時、私はまだ整理収納に出会ってもいませんでした。
それから2週間もせず父は他界しました。
父の葬儀の際に喪主の挨拶をした母の言葉も相当なモノでした。
通常は「故人のためにご参列いただきありがとうございます・・・」
などの言葉が連なるはずなのですが、母の言葉は
「私を助けてください!心細くて死にそうだから皆さんお願いします」
故人を偲ぶ言葉でも、参列者に対するお礼の言葉でもないお願い文。
この異様な喪主の挨拶で父を送り出したのでした。
今までの人生を思えば私が母との同居なんてあり得ませんでした。
同居する事は、母への恨みつらみを思い出す機会が増える事。
お互いに機嫌よく過ごせる時間を減らす事になります。
しかし実家に呼ばれるたびに積み上がっていく洗濯物や印刷物・・
テーブルの上は茶碗とお椀を置くスペースだけを空けて山ができています。
悩んだ末に自分が後悔しない方を選び同居を決意したのです。
そこから荷物の整理が始まり、世帯道具一式を移すか捨てるか!
すでにモノの判断が出来なくなっていた母に
自身のカビたタンスを1つだけ処分して欲しい旨を伝え
こちらからタンスを一つだけ入れる事にしていたのです。
ところが引っ越し当日、母から言われたことは
「どうしても捨てられないからあんたのタンスを捨てて
 (カビた)このタンスにあんたたちの荷物を入れればいい」でした。
もちろん中には母の古い衣類が入ったままになっています。
私は泣く泣く追加料金を支払い、折角運んだタンスを処分する羽目に・・
それからも母の使わないモノをそのままに
自分たちが愛着をもって使っているモノのほとんどを処分する日が続き
すり減るような思いの中で出会ったのが整理収納だったのです。

【学びと社会貢献】

最初に受けた整理収納アドバイザー2級認定講座では
この葛藤の日々を説明できませんでした。
整理収納教育士、整理収納企業内マネージャー、住宅収納スペシャリスト
整理収納アドバイザー1級、整理収納コンサルタント、
高齢者の整理収納サポーター、発達障害住環境サポーター
防災備蓄収納プランナー、自考力マイスター認定講師
整理収納ベーシックコーチ、ハッピーファシリテーター
答えを求めて上記の講座を受講し気が付けば
開業できるほど上位の資格を取得していました。
そこまで学べば自分の人生で整理がつかなかった理由や
どんなネガティブを手放せば良かったのかが見えてきます。
(出来るor出来ない、したいorしたくないは別にしても)
整理収納はそのくらい生活に関わり
『モノとメンタルの両方に効くスキル』です。
今では母から受けた心の傷も、同じような経験を持つ方に寄り添い
実例としてわかりやすく伝えるために必要だったと思えますし
片付けられない本当の理由は本人の中にあることも理解できます。
(確かに病気の方もいらっしゃいます)
教育、親子、高齢者、発達障害、防災備蓄、建築設計、暮らし替え
企業・店舗の収納、人付き合い、時間、作業、節約・・・
誰もが持つ何かの不安に対し
本当の原因は「何に困っていて、どうなれば良いのか?」
そのためには「何を手放して何を手に入れたいのか?」
を掘り下げる事が答えに繋がります。
『ネガティブを手放しポジティブを育む整理収納』
これを整理収納の持つ「時間的」「経済的」「精神的」効果と併せ
提供していく事が自分の使命なのだと、今は思います。
もちろん経験が無くてわからない事もありますが
より良い方法を一緒に考える事はできます。
人によっては、単刀直入にメンタルを矯正するより
住まいや持ち物から自分軸を見直す方が幸せの近道だと感じます。
全ての人が整理収納でポジティブに!
行く行くは「整理収納で世界平和!」
そんな社会貢献を本気で考えているのです。

シニアと親子のお片付け窓口
代表 千秋村瀬